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| 徳治3年(1308)後二条天皇が突然亡くなった。次の天皇は両統迭立の原則で持明院統の花園天皇が即位した。後宇多は花園天皇の東宮(皇太子)として尊治を推し、幕府に認めさせた。後二条の子邦良親王に健康上の問題(未成年)があったためで、邦良へのつなぎ役、自分の子供たちに皇位を伝えられない「一代の王」として持明院統や幕府に了解されていた。 文保2年(1318)後宇多は在位9年になった花園天皇を「文保の和談」によって退位させ、尊治を天皇にし東宮に邦良を立てた。大覚寺統の天皇が二代続くことになるが、持明院統の政治力が後退したのに乗じたものだった。 後醍醐が皇位を子孫に伝えたいと思い始めると、皇位継承を最終的に決めていた幕府の存在が邪魔になった。鎌倉幕府の最後の執権北条高時は田楽と闘犬にひたり、幕政は停滞していた。 元徳3年(1331)後醍醐の2度目の討幕計画が幕府に知られた。8月後醍醐は京都を逃れ、東大寺、南山城の鷲峰山、笠置と移った。9月には河内の赤坂城で楠木正成が後醍醐に呼応して挙兵した。 六波羅探題指揮下の軍によって笠置が落ち、逃れた後醍醐は神器とともに幕府に捕らえられた。 京都に移された後醍醐から三種の神器は奪われ、即位した光厳天皇(北朝)に渡された。笠置攻めのために集められた大軍は赤坂城を攻め、城を落とした。 日本の歴史7 小学館より |
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