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| 元徳4年(1332)3月、後醍醐は少数の供とともに隠岐へ流された。 しかし後醍醐の息子、護良(もりよし)親王は奈良、吉野、熊野などで兵を集めるなどの活動をしていた。赤坂城から逃れていた楠木正成も河内や和泉で活動を始め、播磨では赤松円心が山陽道、山陰道を押さえていた。九州や四国でも倒幕の動きが見られるようになった。幕府は百万ともいわれる大軍で正成の千早城を攻めたが、城は落ちず、倒幕側に勢いを与える結果となった。 正慶2年(1333)閏2月、後醍醐は隠岐を脱出し、伯耆の名和長年に推されて、船上山に城郭を構えた。驚いた北条高時は4月大軍を京都に上洛させた。そのなかの武将に足利高氏がいた。高氏は5月丹波の篠村で寝返って、六波羅を攻撃した。 足利氏は清和源氏の棟梁の流れをくみ、幕府内でも北条氏に劣らない家格を誇る一族で、武士たちから北条氏に代わる統率者として期待されるようになっていた。赤松円心、後醍醐の側近の千種忠顕なども攻撃に参加し、六波羅探題は滅んだ。その15日後鎌倉の北条氏も新田義貞らによって滅ぼされた。 後醍醐は京都に凱旋した。足利高氏は後醍醐の諱(いみな)「尊治」の尊をもらい尊氏と名乗った。正慶の年号は廃されて元弘に戻され、鎌倉幕府によって処罰されていた人たちも復帰した。 日本の歴史7 小学館、日本史 山川出版社 より |
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