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| 倒幕に成功した後醍醐天皇は、公家と武家の上に立つ天皇が専制的な権力を持つ体制づくりを始めた。それは897年に即位した醍醐天皇の時代(延喜・天暦の聖代)への復帰を目指したものだった。天皇の称号(追号)はその死後定められるものだったが、後醍醐は醍醐天皇を継ぐ天皇として自分と次の後村上の称号を決めた。 しかし律令制をそのまま適用できるわけではなく、様々な機関をつくる必要があった。また天皇がすべてを決定する体制になると、それまでの国政の最高機関、公卿会議は不要になる。その結果上級貴族は官位相当制とは違う、もっと格下の官位につけられることになった。 後醍醐は「個別安堵法」ですべての所領の所有権を綸旨で再確認することにしたが、1ヶ月後には、北条方に味方したもの以外の所領は一律に安堵されることになった。また恩賞方も機能せず、武士たちへの所領はほとんど無くなってしまっていた。 地方の守護も、行政の実務を行なうようになっていて、それを廃止することはできなかった。そのため国司と守護が併置されることになった。但し大半が貴族出身の国司が、武士の守護よりも上位とされた。 新政に対する批判は、武士や庶民にも広がっていった。二条河原落書に京都の住民の反応が現れている。この二条河原落書を紹介する資料を探しているのですが、なかなか見つかりません。 一方鎌倉や東国の武士たちは足利千寿王(後の義詮)の周りに集まり、新田義貞は争いになるのを避けて後醍醐の基に上京した。護良親王は足利尊氏の力が大きくなるのを恐れて、奥州・多賀国府に拠点をつくり、足利氏と東国の武士たちを分断させようとした。 後醍醐の皇子で護良の異母弟、義良(のりよし)親王を多賀へ下向させ、北畠親房の子、顕家(あきいえ)が奥州統治の全権が付与された陸奥守となって同行することになった。奥州小幕府ができたことで東国の武士たちが奥州に戻り、鎌倉は一時期さびれたという。 これに対し尊氏は鎌倉にも同様の機構を置くように後醍醐に迫った。後醍醐は子の成良(なりよし)親王に、相模守となった足利直義をそえて鎌倉に下向させた。これによって鎌倉幕府陥落後に尊氏が鎌倉に築いていた拠点が公認されたことになった。奥州に下っていた関東の武士たちも鎌倉に戻ってきた。 天皇専制を目指していた後醍醐と足利尊氏を中心とする武士勢力は対立を深めていった。後醍醐は護良親王、新田義貞、楠木正成、名和長年らに尊氏の抹殺を命じたという。尊氏もそのような動きを察知し、警戒を強めていた。 日本の歴史7 小学館 より |
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