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| 護良親王は大和と河内の国境、信貴山で武士たちを集め、尊氏誅殺と自らの将軍任命を求めていた。後醍醐は尊氏誅殺は拒否したが、護良の暴走を抑えるために彼を将軍に任じて入京させた。しかしその将軍はほとんど権力がないものにされていた。護良は令旨で所領回復を認めることで武士たちを集めていた。鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐にとって、武士の所領を確定し政権を安定させることが急務だった。 後醍醐は護良の入京前、元弘3(1333)年に戦争の終結を宣言し、土地所有の変更には後醍醐の綸旨が必要、とした。これによって護良のもとに集まっていた武士たちが離れていき、代わって怪しげな無頼のような者たちが集まってきた。 護良は令旨を諸国に発して軍勢を集めるなど、独自の動きを始めた。それに気付いた尊氏は後醍醐に「護良親王に帝位をうかがう謀叛がある」と訴えた。 建武元(1334)年、清涼殿の詩会に出るために参内した護良は捕らえられた。鎌倉に護送され、足利直義によって「二階堂の薬師堂の谷」に幽閉された。 「梅松論」によると、後醍醐が護良に尊氏を狙わせ、尊氏に問いつめられるとその罪を護良に負わせたということらしい。 日本の歴史7 小学館 より |
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| 武者姿の護良親王 「伝護良親王出陣図」より |
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| 護良親王の令旨(上)と幽閉された二階堂鎌倉宮本殿裏 日本の時代史 10 吉川弘文館より |
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