中先代の乱
鎌倉幕府と朝廷の取り次ぎ役、関東申次だった西園寺家の公宗(きんむね)は後醍醐の暗殺と、北条氏残党の一勢蜂起を計画していたらしい。しかし公宗の弟公重が後醍醐に兄の計画を告げたため、建武2(1335)年6月、公宗や公宗の妻の兄らが捕らえられた。
7月信濃で北条時行(高時の息子)が蜂起した。軍勢を増やして鎌倉に迫り、幽閉していた護良親王を殺して出陣した足利直義を破って7月25日に鎌倉に入った。(北条氏を先代、足利氏を後代、時行を中先代とする呼称)
これを知った足利尊氏は後醍醐天皇から征夷大将軍の地位を得て、鎌倉に向かおうとしたが、後醍醐はそれを認めなかった。8月2日足利尊氏は後醍醐の許可を得ないまま京都を発ち、後醍醐は後追いで将軍の号を尊氏に授けた。
三河で足利直義と合流した足利尊氏は8月19日鎌倉から北条時行を敗走させた。
後醍醐は足利尊氏に帰京を命じた。尊氏はすぐに京都へ戻るつもりだったが、それに反対したのは直義だった。後醍醐の了解を得ないで、足利尊氏はすでに配下の武士に恩賞を与えていた、そして新田義貞一族の所領を没収し、それも恩賞として与えた。そして鎌倉幕府将軍邸跡に屋敷を建て10月にはそこへ移った。
後醍醐は新田義貞を追討使に任命した。大軍を率いた新田義貞は三河で高師泰を、駿河で足利直義を破った。それまで曖昧な立場をとっていた足利尊氏は、梅松論によると「直義が死んでは、自分が生きていても無益である」と言って出陣したという。
日本の歴史7 小学館 より