後醍醐天皇 吉野へ脱出
建武3(1336)年10月、後醍醐が尊氏と和睦し京都に戻ろうとしたとき、それに反対したのは新田義貞だった。足利尊氏と新田義貞とは宿敵で、後醍醐が比叡山を下りると残った新田義貞は孤立して、朝敵になってしまうからだった。そこで後醍醐は恒良親王に天皇位を譲り、新田義貞と同行させることにした。後醍醐は京都に戻り、新天皇、新田義貞は尊良親王を奉じて北陸へ向かった。
しかし12月21日になって後醍醐は京都から吉野に脱出し、光明に渡した神器は偽器だとして、自分の皇位の正統性を主張した。後醍醐とともに吉野へ向かったのは「太平記」によると、刑部大輔景繁と輿かきに変装した近習の上北面たちだけだった。
公卿の名前が年ごとに列記されている「公卿補任」では30人あまりのうち、後醍醐方の4人の中納言が職を解かれている。四条隆資(紀伊)、洞院実世(北陸)、北畠顕家(奥州)、堀川光継の4人だが、うち3人は( )内の地域にいて、京都にはいなかった。前官や非参議で3位以上の100人余の中から南朝に従ったのは、関白の近衛経忠と前内大臣の吉田定房の二人。中下級の貴族については分らないが、公家の数だけを見るとそれほどの組織ではなかったらしい。
しかし、吉野は山奥にはあるが、四方に道が開け、河内の楠木勢や大和や紀伊の武士たちともつながっていて、後醍醐にとっては周りを味方が囲んでいる、という状況だった。
日本の歴史7 小学館 より