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| 箱根で新田義貞の軍を破った足利尊氏と直義は京都に入った。しかし建武3(1336)年1月末、奥州から来た北畠顕家によって京都を追われた。足利尊氏たちはいったん九州まで下って体制を立て直した。 1 元弘没収地返付令を出して、後醍醐天皇から没収された所領を返すことで北条方の武士の吸収を図った。 2 光厳上皇より2月12日に新田義貞討伐の院宣を得た。これによって朝敵ではなくなり、後醍醐との戦いは「君と君との御事」になった。これで朝敵になるのを嫌う武士たちを集めやすくなった。 3 西下途中の室泊で、中国・四国の守備体制を固めた。これが後の幕府の守備体制の原型となった。 3月2日、太宰府に入った足利尊氏たちは西日本の武家勢力を終結し、4月3日博多を発った。5月末に摂津国湊川(神戸)で楠木正成を敗死させ、6月14日光厳上皇を奉じて京都に入った。8月に持明院統の光明天皇が践祚(せんそ)。10月には後醍醐が比叡山を下り、11月後醍醐から光明に三種神器が渡された。次いで建武式目が制定されて、新幕府が京都に開かれることになった。 しかし、12月21日、後醍醐が女房の姿で吉野に脱出。京都と吉野に朝廷が並び立つことになった。 1335〜36年の足利尊氏 日本の歴史7 小学館 より |
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