北畠顕家
中先代の乱の後、京都から足利尊氏を逐った北畠顕家は陸奥の国府・多賀城(宮城県多賀城市)に戻った。しかし南朝が優勢だった奥州にも北朝方が進出してきた。南朝方の拠点の一つ常陸国瓜連城(茨城県那珂市)が落とされると、顕家は伊達郡の霊山城(福島県伊達市)に移動した。霊山は険しい山で、周りを結城氏など南朝方の領地で囲まれていた。
後醍醐天皇や父北畠親房から何度も西上を求められていた顕家は、建武4(延元2、1337)年8月、霊山城を発った。12月末には鎌倉に入り、翌年正月末には美濃の青野原で北朝方を破り奈良に入った。しかし奈良北方の般若坂で北朝方に敗れ、一時、京都に迫ったが、5月22日の堺の戦いで戦死した。
北畠親房、顕家父子は、後醍醐に忠誠を尽くしながら、その統治手法を批判的に見ていた。顕家は戦死する直前、5月15日付で後醍醐に諌奉を提出している。それによると、後醍醐の中央集権を批判し、適任者を選んで九州、関東、山陽、北陸の各地に派遣し、近隣諸国を統括させるよう提言している。他に、租税免除と倹約、適切な人材の登用と行賞、無用な行幸と宴飲の禁止、朝令暮改の根絶、寵臣の政治介入の禁止、などと続き「下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す」、としている。
日本の歴史7 小学館 より