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| 応安3(建徳元年、1370)年3月、洪武帝は3度目の使者を日本に送った。使者は趙秩、楊載も加わっていた。趙秩の名を聞いた懐良親王は、文永の役のときの使者趙良弼の子孫ではないかと疑い、彼を斬ろうとした。しかし、趙秩の説得を受け入れて、臣下としての「表」を記し、僧祖来を明に派遣した。 趙秩、祖来たちが南京に着いたのは翌年10月、洪武帝は懐良を日本国王と認めた。 明は日本の実情を知っていたはずだが、九州を押さえていただけの後醍醐天皇の皇子懐良親王を日本国王と認めたことになる。明としては倭冦の禁圧を第一と考えていたのかもしれない。明の資料にはなぜか「日本国王良懐」と出てくる。一度決めたら決して変更しようとしなかった洪武帝の頑迷さが現れているのかもしれない。 日本の歴史7 小学館 より |
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