|
|
|||
| 応安5(文中元年、1372)年5月、懐良を日本国王に封じる冊封使が博多に着いた。そのとき博多には、懐良の征西府を攻撃するために今川了俊の軍が集まっていた。明の使者一行は今川軍に捕らえられた。使者は懐良宛の洪武帝の詔書を隠し、交渉相手を北朝に切り替えた。 しかし、北朝の天皇宛の皇帝の詔書を持っていないことで疑われ、博多の聖福寺に約1年拘留された。翌応安6年幕府から上洛許可がおりて6月末、使者たちは京都に入った。管領細川頼之も詔書がないことから慎重な姿勢をとったが、16歳になっていた足利義満の意向が通ったらしく、答使の派遣が決められた。幕府は明の使者に同行させて遣明使を派遣した。倭冦によって拉致されていた明や高句麗の人々150人と明への渡航を希望していた僧71人を伴っていた。 洪武帝は義満を交渉相手とは認めなかった。懐良親王が太宰府から追われたという報告を受けても「日本国王良懐」だけを認め、義満には中書省から「傲慢無礼」を非難する文書が出された。 日本の歴史7 小学館 より |
|||