明徳の乱
山名時氏は足利直義派だったが幕府に帰順したときに、丹波、丹後、因幡、伯耆、美作の五カ国の守護を安堵された。時氏の死後、それらの守護職は子供たちに分けられ、一族は但馬、和泉、紀伊、出雲、隠岐、備後の守護を獲得した。当時日本は66カ国だったので、そのうち11カ国の守護となった山名氏は「六分の一衆」と呼ばれた。
康応元年(元中6年、1389)山名氏の嫡流の時義(ときよし)が没すると、将軍義満は庶流の氏清(うじきよ)と満幸(みつゆき)に時義の息子、時煕(ときひろ)と氏之(氏幸、うじゆき)を攻めさせた。その後将軍義満は上皇の所領を押領したとして満幸を京都から追放し、逆に時煕と氏之を支持した。利用されたことに気付いた満幸は山名一族がまとまって義満と対決しようとしたが、分裂は解消できなかった。氏清と満幸たちは幕府軍と京都の内野で戦い、敗れた。この結果山名氏の守護職は但馬、伯耆、因幡の3カ国だけとなった。
日本の歴史7 小学館より