寧波の乱
日本の船が寄港できるのは寧波に限られていた。正徳9年(1523年)大内氏が派遣した勘合船が新しい正徳の勘合を持って寧波に着いた。正徳元年に大内氏は勘合船を派遣し新しい正徳の勘合を受けていたが、幕府に提出せずに独占していた。そこに遅れて細川氏の勘合船が古い勘合を持って到着した。状況としては細川氏側が不利だった。
細川氏の副史宋素卿(そうそけい)は市舶司太監に賄賂を贈り、細川氏側の立場を大内氏より優位なものにした。怒った大内氏の使節団は細川氏を襲い12人を殺し、接待所や細川氏の船に火をつけた。
この事件で明は日本に対し、閉関絶貢(関を閉ざして貢を絶つ)を決めた。17年間貿易は中断し、その間琉球の使節が両国の間に立った。
宋素卿は日本商人から漆器を買った父親が、その代金が払えないため抵当として日本に連れて行かれていた。細川家では彼を学者として登用した。宋素卿は前回の派遣の際に勘合を持っていなかった非合法の船を、孔子廟を建てるために派遣されたと主張して入貢を許されている。寧波の事情を知り、優れた交渉能力を持っていたらしい。

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中国の歴史 海と帝国、中国の歴史 陳舜臣 より