比叡山焼き討ち
信長は浅井・朝倉氏と結んで敵対していた比叡山延暦寺に対し、全山の焼き払い、僧俗全員の殺害を命じた。姉川の合戦で敗れた浅井・朝倉の一部の軍勢は延暦寺に逃れていた。延暦寺は歴史的にも政治的存在で軍事力も持っていた。
信長はそのころ大阪に本拠を持つ本願寺との戦いにも軍を向けなければならなかった。伊勢長島では苦戦した弟彦七(信興)が自殺し、叡山の下界での行政都市坂本をおさえていたが、浅井・朝倉の遊撃軍によって攻め落とされた。さらに甲斐の武田信玄が西上を開始した。反信長派から見ると、信長の亡びが見えてきていた。
信長は坂本の叡山代表に味方になることを求め、次いで中立を守るように求めた。そして背く場合は焼き払うことを伝えていた。しかし叡山は何の対策もたてなかった。
9月12日、北からは木下藤吉郎が、東からは明智光秀が叡山を登った。光秀は丹念に虐殺を行い、藤吉郎はいい加減に虐殺を行ったらしい。北部へ逃れた多くが助かったと叡山では伝えられている。「信長公記」では数千人が殺されたとされている。山上の堂塔はすべて焼かれ、経巻や文書も灰になった。

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街道を行く16 叡山の諸道 より