徳川家康 江戸に入る
小田原北条氏を攻めていた豊臣秀吉は、持久戦のため石垣山に天守閣を持つ城を築いた。「落穂集」によると、秀吉は家康を呼び山頂から小田原城を見下ろし、連れ小便をしながら関八州を家康に与えると伝えたらしい。また府城は武蔵国江戸という漁村に造るように勧めたとされている。秀吉が築いた大阪城も湾の奥で港に近い。49歳の家康は先祖以来の三河を離れ、全く知らない東国へ行くことになった。
1590年7月北条氏が落城、混乱の中8月1日家康は江戸に入った。その頃の江戸は「茅ぶきの家、百ばかりもあるかなしかの体」(慶長見聞録)で「城は、かたちばかりにして、城の様にもこれなく」という状態だった。人家も少なく、太田道灌が築いたという城はおどろくほど粗末なものだった。
江戸のあたりは湿地で稲作には向かず、八王子あたりのほうが農耕に適し、武蔵国府城も現在の府中市にあった。八王子近くの城を攻め、守っていた2000人の半数以上が戦死したという。家康は北条氏の落武者を家臣として召し抱えることにした。「八王子千人同心」という徳川直臣団は甲州街道の西をおさえた。

街道をゆく1 朝日文庫